経済的自由と時間的自由、公正世界仮説。
いつもブログ訪問ありがとうございます。横瀧です。
僕の会社ももうすぐ丸11年になります。最初は経済的な自由がほしくて朝から晩まで、がむしゃらに働きました。それで経済的に余裕ができても、自由時間は殆どなかった気がします。
経済的自由と時間的自由ってトレードオフの関係じゃないと思うんです。
経済的自由のために時間を犠牲にするのも、時間的自由のために経済的自由を選ばないのも違うと思う。「経済的自由」も「時間的自由」も自分の言動、思考の結果ですよね。
たぶん、僕の今の「経済状況」は僕の行動の結果かもしれないし、趣味の水泳に費やす時間は、僕の選択の結果だと思います。ただ、最近思うのは、誰もが経済的に自由になたりたと思ってもなれない現実がある。
明らかに「貧富の格差」はあるし、富も偏在していると思う。
ここは色んな意見があると思いますが、僕なりの考察を。
それは現代社会が「平等」でも「公平」でもないからだと思うのです。
いわゆる「公正世界仮説」のバイアスです。「僕の今の〈経済状況〉は僕の行動の結果」と思ってしまうのが、まさにその典型ですよね。
「公正世界仮説」とは、現代社会が「平等」で「公平」な世界であるという仮説です。
現代社会が「平等」で「公平」な世界であるならば、努力は報われるだろうし、今の状況は自分の責任だということです。
これは「被害者批判」につながる認知バイアスとして、最近よく取り上げられています。
具体的には、生活保護受給者に対して、「働けよ」「日頃の行いが悪い」とか、コロナ感染者に対して、「外出するからだ」「危機管理ができていない」などという批判がそうです。
公正な世界では、良い行いは報われるし、悪い行いは罰せられます。そして、世界はそうであるべきだし、そうだとする考えです。
だから、「公正世界仮説」的には、今の経済状況は自分の行いの結果になるわけで、大富豪は卓越したセンスや努力の結果そうなったというものです。だって、世界は「公正」で「平等」なのですから。
本当にそうでしょうか?
もともと、現代まで、世界は「公正」でも「平等」でもありませんでした。身分制度があり、奴隷制度もありました。そして、人々は「公正」で「平等」な世界を求めて、革命を起こし、現代に至るわけです。
逆に、建前上「公正」で「平等」な世界になって、「差別」や「偏見」が生まれたのも事実です。
たとえば、「人種差別」。
現代社会は「公正」で「平等」であり、その試金石みたいな国が、アメリカ合衆国です。そんな「公正」で「平等」な社会であるはずのアメリカ合衆国で、白人にくらべて、黒人の所得格差や、学歴格差は歴然としているわけです。そうすると、「公正」で「平等」な社会の住人は思うわけです。「こんなに公正で平等な社会なのに、学歴や所得で劣る黒人は劣等人種なのではないのだろうか」と。
そして、「偏見」や「嫉妬」。
たとえば、街中で超高級車であるフェラーリを若い男性が運転していたとします。すると、公正で平等な社会の住人は、「同じ労働でこんな差ができるはずかない。きっと彼は、人を騙してか、ログでもない仕事で大金を稼いだに違いない」と。
この認知的不協和を解消するために「差別」「偏見」「嫉妬」が生まれます。認知的不協和を解消する「甘いレモン」「すっぱいブドウ」という心理学的コントロールではなく、そもそも、この認知的不協和の原因は何なのでしょう。
それは、この社会が「公正」で「平等」という前提だからです。
もう、お気づきかもしれませんが、現代社会は「公正」でも「平等」でもありません。
では、現代社会は、いくら努力をしても報われない、理不尽な暴力を受け入れなくてはいけない社会なのでしょうか。もちろん、それは違います。単に現代社会の前提が「公正」でも「平等」でもないというだけです。
日本では現代社会においても、平民と皇族という身分制度があるので、なんとなく、肌感覚はわかるのではないでしょうか。僕たち平民が皇族に対して「差別」も「偏見」も「嫉妬」もないのは、生きている社会や出自が違うからです。比較対象ではないのです。サメとライオンがどちらが強いかなんて比べようがないとの同じです。そもそも、住んでいる世界が違う。
では、「差別」や「偏見」のない世界を築くために、また「身分制度」を設け「職業選択の自由」をなくせというのでしょうか。逆説的ですが、真に「公正」で「平等」な社会を築こうとしているのが厳格なイスラム法で統治しようとしているタリバンなのかもしれません。厳格なイスラム法の下では、女性は働くことができないかもしれませんが、「そういうものだ」と思えば、その国ではそれが「当たり前」かもしれません。
なにが正しいか、正しくないかという話ではありません。
アフガニスタンを支配下に置いたイスラム主義組織タリバンには、女性の権利を制限するとの懸念が絶えない。かつて同国を支配した際、独自のイスラム教解釈を基に女性に厳しい規制をかけた。国際社会がタリバンの統治を憂慮する背景になっている。タリバンは1996~2001年にアフガニスタンを支配していた際、女性の就労を認めず「ブルカ」と呼ぶ全身を覆う衣服の着用を強制した。女子教育も著しく制限した。欧米の価値観
アフガニスタンを支配下に置いたイスラム主義組織タリバンには、女性の権利を制限するとの懸念が絶えない。かつて同国を支配した際、独自のイスラム教解釈を基に女性に厳しい規制をかけた。国際社会がタリバンの統治を憂慮する背景になっている。タリバンは1996~2001年にアフガニスタンを支配していた際、女性の就労を認めず「ブルカ」と呼ぶ全身を覆う衣服の着用を強制した。女子教育も著しく制限した。欧米の価値観
皇族と平民という、実は何千年も続く身分制度がある日本。天皇陛下は第二次大戦前まで神の系譜を受け継ぐ現人神(あらひとがみ)で、戦後に人間になられた。そして、厳格なイスラム法で統治しようとしているタリバン。自由平等公正の試金石みたいな国、アメリカ合衆国。
少なくとも、今、僕が暮らしている日本という国は、「公正」でも「平等」でもない社会であるということを踏まえ、「経済的自由」「時間的自由」という「自由」の定義をより深く考察していきたいと思います。
そもそも、「自由」が必要なのでしょうか。「不自由」ではダメなのでしょうか。
ほとんどの人は、「経済的不自由」「時間的不自由」な状況です。「公正」でも「平等」でもない社会において「不自由」な生活をしていると思うと、何だか残念な気持ちになりますが、それはひとつの資本主義、民主主義社会の答えになっているような気がします。いわゆる資本主義、民主主義社会における「自由」という「不自由」さからの解放が「不自由」であるということです。
「公正」で「平等」で「自由」な社会は、「不自由」だということです。
日本では、どんな職業にもつけるし、言論の自由もある。いつでも、行きたい場所に行き来できる自由が保証されています。まさに、「公正」で「平等」で「自由」な社会です。
でも、僕たちはその権利をほとんど行使できないまま、目の前の仕事に忙殺されています。マルクスのいう資本主義の4つの疎外と同じように、「公正」「平等」「自由」から疎外された状態で、それを手に入れようと努力をする。カフカの「城」のような光景が浮かびます。
結局、現代社会における、「自由」とは、まさに「不自由」さだと思います。「自由」の権利を保持するために「不自由」な選択肢を選び続ける必要がある。
この現代社会において、「公正」「平等」「自由」を標榜する資本主義、民主主義社会の「違和感」になんとなく僕たちは気づき始めているのかもしれません。
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