たっきーです。
なぜ、人はゲームに没入するのだろうか。
そこには、本能的な人間の生理的な欲求があるからかもしれない。
20世紀フランスの文筆家ロジェ・カイヨワは人間の遊びを「競争」「運試し」「模擬」「めまい(目が回るような刺激)」の4つに分類し、「遊ぶ動物」である人間の本性を考察した。:日本経済新聞2020年11月27日
人類は「遊ぶ動物」だとすれば、そこに楽しいおもちゃがあれば、遊ぶ。飽きもしないで遊ぶ。最近のゲームは、どれだけ「時間」と「お金」をプレイヤーに使ってもらうか、よくデザインされている。
どんどんその世界に没入し、かなりの「時間」と「お金」を投じることになる。単純に楽しいからというよりは、現代のゲームには、もっと社会的な課題があるように思える。
吉田准教授はゲームをプレーする人の意識の中には、ある二重性の感覚が生じていると指摘する。「ゲームキャラクターのマリオはアイコン(似姿)であると同時に、操作対象でもある。その2つの認識の衝突やずれをプレーヤーは楽しんでいる」というのだ。
プレーヤーにとってマリオは自分であり、コントローラーで操作する対象でもある。主体と客体が混然となった特異な意識がプレーヤーに強い万能感をもたらす。:日本経済新聞2020年11月27日
映画や漫画と違うのは、劇中の主人公はあくまでも、他者であり、自分ではない。感情移入したとしても他者と自分という境界線がある。
しかし、ゲーム内のキャラクター(主人公)は、他者でもあり、自分のアバターでもある。そこには、映画や漫画にはない疑似体験がまっている。空を飛んだり、強大な敵を倒したり、難解なナゾを解いたり、勇者として、人助けをする・・・。
架空な世界ではあるが、そこでは必要不可欠な存在であり、他者から信頼され、仲間とのつながりもある。
「ゲームは公平な世界」と吉田准教授はいう。時間や労力をかければ成果は上がるからだ。しかしゲームの外には努力が必ずしも報われない現実がある。「ゲームが社会に浸透した背後には『現実は不公平』という意識を持つ人が多いことがあるのではないか」:日本経済新聞2020年11月27日
ゲームには「正義」と「公平」、「自由」がある。そこでは、好きなように生きることができる。お金の心配も、労働もあるわけでもなく、気のおけない仲間達と楽しい会話をしながら、好きなときに冒険にいき、好きな場所へいける。まさに完璧な世界である。
現代社会では、ゲームはある種のスケープゴートとして機能しているのではないだろうか。
人生は思い通りにならないことも多い。人は人生を思い通りにコントロールしたいという基本的な欲求があり、また遊ぶ動物でもある。
目の前に、楽しい完璧な世界があるのであれば、そこに入ってみたいと思うのはわかる。ただ、架空世界と現実世界のギャップがなにをもたらすのだろう。
ギャンブル、お酒、ネットゲーム。ほどほどにすれば、いい息抜きなのかもしれないが、ハマれば、そこは抜け出せない世界でもある。「ストレス発散」といえば聞こえがいいが、やはり、そこにのめり込むのは処理しきれない「ストレス」が原因だったと自己分析してみる。
何かから「逃げたい」と思ったとき、人は逃げ場所を求める。それが、ギャンブル、お酒、ネットゲーム、様々な依存性のある逃げ場所である。
僕がお酒も、ネトゲーもしなくなったのは、闇雲に「逃げる」ことをやめたかもしれない。逃げるまえにその対象をよく観察して、考えることによって、客観的に自分や環境を見直せれるようになったからである。
現実社会からの抑圧は、お酒、ネトゲー、借金、などのスケープゴートを生む。大切なのは、目の前の環境や、今の自分をしっかりと観察することなのかもしれない。
なぜそう思ったのか、なぜそうしたのか。自分との対話を繰り返すうちに、自ずと進むべき道が見えてくるのではないだろうか。


